古代、全国の寺社建築を支えた「飛騨の匠」の魂は、江戸期に入ると、華やかな町人文化や武家の暮らしを彩る生活道具へと姿を変えました。春慶塗りの艶やかな椀や盆、繊細な箸、贈答用の箱物、実用性に優れた曲物など、日々の食卓や儀礼の場を美しく整える品々の中に、その緻密な手仕事と美意識が息づきます。そして明治・大正の近代化が進み、西洋の生活様式が日本にも広がると、飛騨の木工は椅子やテーブルなどの洋家具へと領域を拡大。さらに現代では、伝統を礎としたクラフト製品にも発展し、匠の精神は形を変えながらも脈々と受け継がれています。
今回は、そうした歴史の流れを受け継ぎ、近代に入り家具やクラフトの世界へと活躍の場を広げた「飛騨の匠」の歩みをご紹介します。
古代、全国の寺社建築を支えた「飛騨の匠」の魂は、時代が下って江戸期に入ると、華やかな町人文化や武家の暮らしを彩る生活道具へと姿を変えました。春慶塗りに代表される艶やかな漆椀や盆、繊細な箸、贈答にも用いられた箱物、そして実用性に優れた曲物など、日々の食卓や儀礼の場を豊かに演出する品々の中に、その技は息づき続けます。さらに明治・大正の近代化とともに、西洋の生活様式が日本にも広がると、飛騨の木工は椅子やテーブルといった洋家具、そして現代のクラフト製品へと発展し、匠の精神は形を変えながらも脈々と受け継がれていきました。
飛騨に芽吹いた近代家具産業の物語 — 森と匠が生んだイノベーション 山に眠る資源との出会い(大正時代:1920年〜)
1920年(大正9年)、まだ雪の残る早春の高山町。味噌醤油の醸造業を営んでいた武田高蔵は、店先で耳にした「ブナの木で椅子が作れる」という一言に心を動かされました。 当時の飛騨は豊かな原生林に覆われ、特にブナは森に埋もれた“使い道のない木”とされていました。しかし関西で曲木(まげき)家具の技術を学んだ森前兄弟との出会いが、眠っていた資源を活かす新たな産業の芽となります。
大正期の日本は、西洋文化が徐々に暮らしへ入り込み、都市部では洋家具が流行し始めた時代。 しかし、地方では畳と座卓の生活が主流で、椅子やテーブルはまだ「異国の暮らしの道具」でした。 ブナを蒸し、型に入れて曲げる技術は、19世紀ドイツのミヒャエル・トーネットが生み出したもの。軽くて丈夫、量産も可能なこの方法が、飛騨に導入された瞬間でした。
挑戦と改良の日々(1923年〜昭和初期)
家具作りの初期は、失敗の連続。木材の水分管理が難しく、折れや割れ、形戻りが多発しました。名古屋への初出荷も輸送中に塗装が剥げるという苦い経験から、地元の漆職人による塗り仕上げが採用されます。
同時に、「椅子のある生活」を知らない地域で洋家具を作るという挑戦は、まさに文化的な冒険でした。 しかし、飛騨には古代から寺社建築を担ってきた「飛騨の匠」の技術があり、それが新しい家具づくりの土台となります。
世界恐慌と生き残り戦略(1930年代)
1930年代、世界恐慌の波は日本にも押し寄せ、不況が深刻化。飛騨の家具メーカーは生き残りをかけ、新製品を次々と開発しました。三角形の三本脚椅子や重ねられる椅子は、省スペースで機能的と好評を博し、特許も取得。
さらに、1936年には外国人バイヤーとの出会いからアメリカ輸出が始まります。折り畳み椅子やベニヤ張りの椅子が海外市場へ渡り、飛騨は国際舞台へと足を踏み出しました。
昭和初期の日本は軍事色を強め、やがて戦争の時代へ。家具産業も軍需生産へとシフトしていきます。
戦争と技術革新(1940年代)
戦時下では弾薬箱や木製戦闘機の製造に従事。 一方で、小島班司ら技術者が科学的アプローチを導入し、木材含水率測定器や高周波乾燥技術など、日本初の革新が次々と実用化されました。
終戦後は「飛騨産業」として再出発。進駐軍(GHQ)からの大量注文やディペンデントハウスの家具製作をきっかけに、洋家具文化が日本の暮らしへ浸透していきます。
コロニアルスタイルと輸出黄金期(1950〜60年代)
1950年代にはアメリカ市場向けのコロニアル家具が主力に。メープル材より安価な国産材を活用し、大量生産と専用機械の自社開発で輸出量を急拡大。最盛期には日本の木製家具輸出の8割以上を占めました。
1960年代に入ると、日本国内も高度経済成長の波に乗り、洋風の生活様式が急速に普及。国内需要拡大に合わせ、モダンなホームセットやダイニングセットが人気を集め、地元の木工技術全体が底上げされました。
ブランド「飛騨の家具」の誕生(1965年〜)
1965年、日本橋三越で開催された『飛騨の家具展』が大きな反響を呼び、デザイナー花森安治が揮毫した「飛騨の家具」の文字がそのままブランドロゴに。以降、国内外で「匠の家具」としての地位を確立します。
この時期、日本では「ディスカバージャパン」キャンペーンが旅行ブームを後押しし、地方の魅力が全国的に再発見されていました。飛騨の家具もその流れに乗り、観光と産業の両面で注目を集めます。
産地の拡大と現代への継承
戦後から1970年代にかけて、柏木工、日進木工、シラカワなど多くのメーカーが創業し、産地ネットワークを形成。公団住宅でダイニングキッチンが採用され、日本の食文化が「ちゃぶ台」から「椅子の生活」へと移行したことも追い風となりました。
さらに、皇居新宮殿への家具納入や海外展示会への出展など、飛騨は国内外で高い評価を受け続けています。
おわりに —
森と人が紡いだ百年の物語 飛騨の家具・木工産業の近代史は、 「資源を見つける目」「新しい技術を受け入れる柔軟さ」 そして「匠の技を未来につなぐ覚悟」によって築かれました。 雪深い山間の町から始まった曲木家具づくりは、 今や世界に誇るブランドとなり、 飛騨の森と人の物語を、これからも静かに語り続けていくでしょう